ある田舎在住の方が、話の中で「あそこは昔から評判がわるいからな」という。
個人的な嫌悪をダイレクトに表明せず、部落の客観事実として述べ、婉曲に自身の立場、思いを表現した。
このような表現の仕方が、まさしく田舎を象徴していると、しみじみ思った。
「点」としての個々の主張ではなく、部落の多数の意見という、あたかも「線」(あるいは「面」)としての引用表現を行うことにより、自己主張を「線」の中に埋め込み、矢面に立つ危険性を回避する。
「責任回避」は、卑怯のようではあるが、「和」を乱さず、表面上は温和な関係を維持させる「ムラ」共同体の習慣である。ただし、総意の中に入らなければ、あるいは、総意への恭順がなければ、成立しない。
これは難しい。皆での共同歩調が求められ、異端は警戒される。
拒否されると、「線」はのっぺらぼうの壁と化す。この怖さは想像できる。
共同体としての結束を確保する「線」としての総意であるが、リーダー、あるいは指導的立場の長老などの決定を待つまでは、個々が勝手な意見をいうことは躊躇うほうがいい。
ただし、意味不明な笑顔を浮かべるだけで、個人としての意見を言わず、何を考えているか判らないというように、外部の人々にとっては不思議な現象として写るというネガティブな側面を併せ持ち、「曖昧な日本人」として批評されてきた。
今後、田舎に横たわるコミュニティーの円滑な運営のための「線」の手法が、変容することは難しい。
田舎暮らしを目標とする人々や、過疎化に伴う村おこしとしての移住者の呼び込みも、この、のっぺらぼうの「面」という壁の前で喘ぐのだ。
村八分に陥っているわけでもないし、地域に嫌悪を感じているわけでもない。
これからも増えるだろう、田舎への移住者と「村」とのより良いコミュニケートの鍵はどこか?
そして、国際人として活躍が期待されている現在の日本人に影響を与える、田舎の、いや日本の「線」意識をふと思った。