2006年10月
  1. 2006年10月15日: さらばラオス (3)
  2. 2006年10月14日: さらばサワナケート (2)
  3. 2006年10月13日: 最後の仕事 (2)
  4. 2006年10月08日: ビートル記憶に (0)
  5. 2006年10月05日: ラオ人に習う日本料理 (0)
  6. 2006年10月01日: この期に及んで (0)

さらばラオス

2006年10月15日

ビエンチャンは、我々が始めてきた2年前に比べ明らかな発展を感じる。
街路はJICAの援助で今も改良工事が行なわれている。
街は賑わい、外国人の姿が増し、素的なお店や車が増え、置かれている家具は、はっとする位シンプルで、作っているワークショップを尋ねてみたくなる。

連れ合いは、タラートサオ(朝市)での最後の買い物。頼まれた商品リストを持って値引きに忙しい。
店員は、ラドーやローレックスのイミテーションを80ドルでどうだと言ってくる。それが、交渉次第で40ドルまでは落ちるのだ(為ブランドウォッチを頼まれたわけではないが)。

今現在、日本国内に何台あるのか不明だが、綺麗に整備されたシュビムワーゲン(?、多分)が停めてあった。今見てもシンプルで実用的で実にいい(少々余談)。

この国は、天然資源、手工芸、観光、海外の親戚からの送金の他、外貨を獲得する産業が殆んどないから、外国からの支援に頼らざるを得ない。
産業モードへの移行の兆しも未だ見えないから、一般の人々の生活が豊かになるのは、まだまだ時間がかかるだろう。

一般のラオス人は、ラオス人のお店に行き、ベトナム人のお店には必要以外は行かない傾向がある。ベトナム系の発展を一般のラオス人はよくは思っていないから、マレーシアのように将来のトラブルに発展する危険性もあるかもしれないと思う。

JICAのこの国への支援方針には腰が据わったものではなく、一定感に欠けると感じている。しかし、私自身、ここで与えられた任務を終えた。余計な心配は迷惑であろう。

この国や、この国の人々への批判は容易いが、この国に生を受けてこの国の人々を超える人間になれる人は極めてまれだろうから、全てを受け入れる他ないと思っている。そして、そこから全てが始まることを知った。
さらばラオス。明日ここを発つ。

さらばサワナケート

2006年10月14日

サワナケート最終日は慌しく暮れた。
スタッフとの引継ぎを済ませ、電話、電気、水道の精算をした。各役場では、精算の理由や、我々にとってはどうでもいい様々なことを聞いてくるので、ただでさえスローペースなのに更に時間が掛かってしまう。一日で終わらないのではないかとヒヤヒヤした。

校長に挨拶に行くと、彼はどういう手違いか、我々の出発を14日と勘違いしていて、顔色を失った。

通常は、教育省支所、県庁に挨拶に行き、感謝状を受け取ることになっている。
当然カウンターパートは知っているが、彼も学校側の思い違いを知るよしもない。私も、変だとは思ったが、往々にして様々なスケジュールが変更になったり、先延ばしになったりするので、今回もそんな所だろうと、テーブル制作の忙しさもあり、確認もしないままだった。

校長は、「感謝状は後日JICA事務所に送る。JICA事務所は、日本まで届けてくれるのか?それでOKか?」と聞くのだった。
午後、校長から電話があってプレゼントがあるというので、精算の合間に校長を尋ねると、感謝状も無事用意してあった。通常はスローペースだが、慌てて間に合わせたに違いない。少し笑えた。

校長の顔から焦りが消えていつもの余裕が戻り、授受のポーズで、担当に何度も写真を取らせた。
そして、学校での全ての行事が終了した。

ナショナルフラッグがはためく広場も、教室で机に向かう学生の姿もいつものままだった。
JICAからの派遣のオッサンがいたことは彼らの記憶の端から剥がれ落ちても、成果の何がしかが残ってくれれば本望なのだが・・

今は、ビエンチャンでの様々な行事が全て終わり、少しほっとしている。

最後の仕事

2006年10月13日

ラストテーブル10月9日、最後の仕事になったテーブルが完成した。
10月4日にスタートして、カウンターパートとナンバー2の3人で制作。甲板(天板)は無垢の一枚板。

ここに来て感じることは、日本人に比べ、全体に対する部分の手順の位置と意味を考えるモノ作りの姿勢が希薄であるということ。つまり、ロジカルなモノ作りができない。それを教えることには腐心した。

また、正確な仕上げのための機械の使い方、使用順序の概念がないため、それを理解させ、正しい使用方法を定着させるために非常に多くの時間を割いた。
さらに、理解が定着するくためには、多くの実習を重ねる必要がある。

赴任1年後からスタートさせた教官対象の特別コースでは設計から制作までを行い。出品した展示会では評価が高く、カウンターパートのやる気を起こし、その後は、多くの実習を共に行なうことができきるようになった。
ただし、問題はそれがどれだけ定着しているかどうかであるが、そこは若干自信がない。定着には、まだまだ時間がかかると思っている。

このように書くと、実にうまく成果が出せたように見えるが、悶々とした時間を過ごし、焦れ、幾度も腹が立ち、無力感を感じてきたことも事実である。
我々に課せられたことは、任地への共感を失う事となく、そこを超えていくことである。その点では、我々一人一人が人間として試されているといっていい。

この日は、我家において木工科の全スタッフと共に、最後のラオビールを飲んだ。日本の田舎空間を思い起こす平和な団欒だった。

ビートル記憶に

2006年10月08日

長い間、いい加減な修理の積み上げで、まともな所がほとんどないビートル。
キャブレターもあらゆる部分が、いい加減なメンテナンスで覆われていた。始動が悪かったのは、アクセラレーター(加速ポンプ)からの噴射ノズルが詰まっていたせいだったが、そのノズル自体も有り合わせの可能性が高い。ノズルの詰まりは直せたが、ガスの射出量が異常に多いのである。
だから、始動はできるのだが、始動時にアクセルを不用意に踏みすぎると、エンジンがかぶって始動不能に陥る。そんな時は、そっとアクセルを踏み込み、そのままにした状態でしばらく待ち、スターターを回さなければならない。

その面倒な車を売ってくれという。地元のまだ若いサラリーマン。調子は悪くて、部品は高く、地元にはこの車に詳しいメカニックはほとんどいないという悪条件でもいいという。

最近になって始動性が極端に悪くなっていたこともあり、再始動性の悪さの改善も合わせ、売却前に少しメンテをした。
始動性の悪さは、点火時期の進めすぎだった。正規の位置に戻したらすぐに始動できた。

アクセラレーターからのガスを減らせることができれば、かなり状況は改善させるに違いない。解決方法として、アマチュアの私の考え付くことは、ノズルの先をトンカチで潰して穴を小さくする。アクセラレーターの作動を少し遅らせてガスの噴射量を減らすということだった。
最初の方法は、最も簡単であり、すでに一度試していた。ただし、ガソリンにゴミが混入している可能性が高いから、いつ又、ノズルが詰まるかわからない。それも困るので、あまり潰したくもなかった。
アクセラレーターが作動しないと、このビートルを始動するためには、エンジンフードを開け、手動でチョークバルブを閉めなければならない。オートチョークだから、始末が悪いのだ(ただし、オートチョークは壊れている)。

スロットルリンクに連動し、アクセラレーターを作動させるアクチエーター(連結棒)にはスプリングが組み込まれ、それを介して作動している。そこで、スプリングを少し切った。これで、初期作動が遅延した。もう少し切って、さらに遅延させたほうが良さそうだったが、時間もないので勘弁してもらった。ガスの噴射量は減るはずである。多少は改善を期待したいが、いい加減整備の上塗りになった可能性も高い(?)。

1,500ドルで購入したが、気の毒になって900ドルの予定を800ドルで売った。それでも、教員の給料の2年分位になるのだ。彼は本当に嬉しそうに、しわくちゃになった100ドル札8枚を差し出した。ずーっと貯めてきたのだという。

日本の軽自動車よりもパワーがなかったし、どこも彼処もひどい状態にも関わらず、所有の喜びと、愛着が途切れることはなかったのは、あのフォルム―。
もう乗ることはないだろう。

ラオ人に習う日本料理

2006年10月05日

旅行ガイドを携えてサワナケートに来たことのある方なら、カフェドパリはご存知だろう。欧米の旅行ガイドにも紹介されているようで、多くの白人達が利用している。
その店を出て、イミグレから旧市街の方向へ10m位入った右側に日本語で書かれたメニューを出すレストランがある。

そのお店ではトンカツが食える。ラオスの豚や牛肉は通常硬いが、そこのものは柔らかくて実に旨い。

我々はもうすぐサワナケートを離れる。今日は、そのお店に最後のトンカツを食いに行った。
最後に食べておきたいという思いと、作り方を見たいという理由からである。どこが違うから嫁さんの作るトンカツより旨い、いや柔らかいのか?

我々は、そのお店の肉は柔らかいので、タイから仕入れているに違いないなどと話していた。
初めて見る、素敵な調理担当のお姉さんは、朝市で仕入れたラオスのお肉を使っていること。ラオスのお肉は完全天然飼料なので、実に安全であること。また、トンカツは日本人に習ったわけではなく、彼女は中華系なので漢字が解る。そこで、日本の料理の本でトンカツを勉強したというのである。

うーん。そうであったのか。ともあれ、彼女が日本のテキストで仕入れたノウハウは、日本のおばちゃんにきちんと還元して頂くことができた。

ちなみにそのノウハウは、嫁さんの話では、日本では見たこともないほど、まるで、切れる位に厳しく肉を叩くというものだったのである。

この期に及んで

2006年10月01日

ダブルボウウィンザーと・・・ようやく最終報告書を書き上げ、郵送する事ができた。
昨日、ダブルボウウィンザーが完成した。前回は、ウィンザースタイルのサイドチェアーを制作した。次のステップは、曲げ木を用いたダブルボウウィンザー(ウィンザースタイルのアームチェアー)に挑戦したいところである(やはり)。ただし、曲げに適した木材を見つけられるかどうかは分らないし、スティーマーに用いる耐水ベニアも入手できるかどうかわからない(参考までに、ここでは、柱、梁用のコンクリートの型枠は無垢板を用いている。壁はレンガ積)。

幸い、試験の後、夏休みに入り、この試みを行なうにはちょうど良かった。

現在、ラオス、タイ間で、日本の援助によって橋が作られている。そこで使われている耐水ベニアを入手することができた。ただし、耐水能力は日本のコンパネよりもかなり落ちる。

曲がりやすそうな材を数種類購入して、条件や、サイズを変えながら数回試した。曲げ用の形(フォーマー)は、曲率は大きくして、曲がりやすいようにした。

トロピカルウッドは総じて曲げにくい。フレキシビリティに欠けるからである。ただし、ラオスには寒暖の差があるせいか年輪のある材料は多いし、導管も認められることから、曲げには期待が持てたが、なかなか曲がるものではない。材の外側は断裂が、内側では座屈が同時に発生するのである。
限られた時間ではあったが、何とか曲がり、使えそうなものを得ることができた。もう少し探せば、曲げ易い材料を見つけることができる可能性はある。

ところで、カウンターパートは来年の展示会に向け、テーブルも作りたいという。この地域ではテーブルセットとして展示、販売する。できれば、テーブルがあるに越したことはないのだ。そして、帰国直前になって、テーブル作りがスタートしてしまった。

画像左は、ハンドプレーナーを用いて平滑加工を始めた一枚板の甲板(天板)(800×1600mm)。左は、学生が制作中のウィンザースタイルのサイドチェアー。これらがセットになるのである。