2006年12月
  1. 2006年12月30日: 年末の些細時 (0)
  2. 2006年12月25日: 防寒対策 (0)
  3. 2006年12月18日: プライバシーの問題 (2)
  4. 2006年12月15日: 養老の滝御徒町 (2)
  5. 2006年12月07日: ご無沙汰しています (0)

年末の些細時

2006年12月30日

一昨日から雪。断続的に降り続き、室内のガラスには昼間も水分が氷結している。九州といえども標高の高いこの地は寒い。
こんなに寒いと、生活環境のことを思う。夏の暑さを我慢することと、冬の寒さを我慢することのどちらがいいのだろう。

(勿論エネルギーをふんだんに使って快適に暮らすことができれば、このようなことは考えなくてもいいのかもしれない。ただ、地球温暖化のためにエネルギーをできるだけ消費しないほうがいいという問題はここでは伏せる)

若い頃は、冬の寒さは精神的にいいと思っていた。が、今は辛い。我家は、さながら古い山小屋と大して変わらないような造りであることを想像して欲しい。現在の平均的な一般住宅よりもすこぶる通気性がいいのだ。

最近の九州の都市部の夏の昼間気温は35度を超えようとしている(とっくに超えているか?)。
我家のある標高4、5百メートル前後の高地である。冬季の気温は、寒いときではマイナス10度を下回り、木材用水性接着剤が凍ってしまう朝もある。夏は快適だがこの冬場の環境は辛い。団塊の世代がカントリーライフに憧れ田舎を求めてやってくるが、ギブアップする事になる場合もあるのだ。

所が最近、隙間を塞ぎ、ガラス戸を付けたおかげですこぶる快適になった。これほど効果があるのなら、台所の天井も付けたい。玄関の天井もだ。更には南側廊下の天井と雨戸に代わるガラス戸もあったほうがいい。そこまでやるなら、いっそのこと断熱材を入れたほうが良いだろうと、想像は膨らんでくる。

所がである。そんな想像を現実に引き戻すのは、決定的に使い勝手が悪いこの住宅への改造の意味と、連れ合いからの年末の野暮用への催促なのである。

防寒対策

2006年12月25日

我家は、雨戸の次は障子である。真冬も面倒で、夜も雨戸を閉めずに障子で過ごしてきた。
南方のラオスにいたせいもあると思うが、この家には、今では寒くてとても暮らせない。

帰国後の重要事項は、寒くなる前までに、防寒対策をすることだった。
古い安普請の家なので隙間があちこちにある。これを、先ず塞いだ。北西廊下の雨戸は、一部に硝子を入れて固定し、内側には板を張り、厠と合わせて天井も付けた。

台所の出入り口も内側から板を張って塞いでしまった。南側の障子にはビニールを垂らし、台所の窓にも外からビニールを貼り付けた。同じく、玄関の約3メートルの開口部にもビニールを下げた。簡単な防寒対策だが大いに効果がある。改造にあまり手を入れるなら新しく自分達で住いを建てたほうがいいに決まっているし、意欲もまだある。そこで、中途半端でも費用や手間を掛けない方法を選んだ。しかし、想像したとおり、玄関の出入りが厄介である。

暫くその状態で過ごしたが、玄関には引き戸かドアを付けようという方向に気持ちは傾いていった。ただし、性格的にあまり大雑把に仕上げるのは納得できないので、手を入れすぎて時間と費用が掛かるのが怖いという不安が残るのだが・・。

幸い、古い障子が残っていた。これを流用することにした。いろいろ考えすぎると先へ進まないし、どうせテンポラリーということで納得させた。
障子の骨を取り去って硝子を入れて三枚並べた。障子など玄関には使えないと思っていたが、古いアルミサッシよりいいと思う。昭和30年代の風情になって結構気に入っている。

これで、俄然暖かくなった。改造に取り掛かるとそれほど時間が掛からずに出来てしまう。今まで寒いのを我慢してきた。一体何をしていたのだろうと思うが、我々は多分若かったのだ。

プライバシーの問題

2006年12月18日

政府税調会長の本間正明氏が、東京・原宿の官舎で愛人と同棲していると報じられた。
政府・塩崎官房長官は、官舎使用については問題はない。税調会長という立場としては、本人が考える事であり、プライバシーは個人の問題なので、それ以上のことを言うつもりはないと述べ、進退問題については本人の判断に任せると報道されていたのを見聞きした。

いい年のオッサンの色恋沙汰が原因で、彼の職の進退を問われる事は、通常は、あまりないように思う。

実は、私が今回赴任したラオスのサワナケートでも、JICAから派遣されているシニアボランティア(以下SV)達と現地お姉さんとの色恋は有名だった。

任期中から二十歳そこそこの若いメイドと良い中になり、現地に土地を購入し、老後を楽しんでいるおやじもいるし、任期が明けて舞戻って土地を購入し、赴任時代からの若い彼女と同棲している家族持ちのオッサンもいる。女性教官と出来て任期を楽しんだSVもはやり家族持ちである。

私の赴任したサワナケートはラオスでは第二の町だが、日本に比べると小さな田舎町である。日本の田舎と同じように地域は密なコミュニケーションが保たれている。人々は貧しく、学生は中途休学し学費を稼いで復学するのは珍しいことではない。女学生の中にはアルバイトに水商売を選ぶ子もいて、日本人SVの夜や女性との動向は、たちまち市内を駆け巡る風であったので、彼らの夜の行動はいつも周知の事実だった。
そんな日本人の情報は私が好まなくても、校長、木工科スタッフ、懇意にしている地元の人々からもたらされるのである。

それは恥ずべき事だった。ラオスの人々にとり、我々は日本という国家から派遣されている、地位や名誉のある職種であると理解されている。そのため、日本人SVの人間性やモラルはいつも注目されている。
また、貧しさゆえ、我々に言い寄る女性もいるのであるが、そうであっても、やはり、我々は試されている・・。現地の人々が試しているわけではないが、結果的に値踏みをしていることは明らかである。

前JICAラオス事務所次長は、「仕事さえして頂ければ、プライベートに関して問うつもりはありません」と述べた。我々よりも若輩の元次長が、孫もいるようなキャリアのあるオッサンのプライベートな問題に口を挟むのを躊躇するのは理解できる。しかし、税調会長の本間氏のように、事の程度を超えていた人々がいたのだ。私も日本人として情けない思いをした。これは、サワナケートに止まらない。

JICAは国際貢献を行なう政府機関として、世間の印象は悪くはないように思うが、実態は検証され、詳らかにされなければならない時期に来ているように思う。
公務員に自浄作用がないのは周知の事実であるし、日本の誇りを喪失して恥じない方々が国際貢献の名の下に貧しい国々へ出向き、現地の方のどうしようもないハンディを逆手に、自らの欲求を充足する姿勢は決して許されるべきではない。それをプライベートの問題として見過ごしていいのか、今度の件でそれを思った。

養老の滝御徒町

2006年12月15日

帰国後すぐに使える予定のISDNが、申し込んでから繋がるまでに1月半もかかった。この辺りは光やADSLは届かないから定額料金サービスはISDNしかないし、昔からあるダイアルアップだと、遅い上にとてつもなく高て使えない。

ISDNの回線を押さえてもらっていたはずなのだが、空きがないという話で、このサービスを利用するためには、SP端子というものを増設するまで待たなければならないという。
結局、NTTは富士通製のPF-ADPというアダプターを我家に設置し、回線を遠くのほうから引っぱってきて無事に接続することができた。アダプターは給電装置ということで、私にはよくわからないが、距離の離れたユーザーのために、このような特殊な装置をNTTは密かに用意していたのだということはわかった。

帰国後に感じたこの国の最近の印象を載せようかと思ってはいたのだが、そんな事情ですっかり記憶も薄らぎ、熱意も薄らいできたこの頃ではあるのだが・・。

成田に着いた後、成田から京成一本で行くことができるという便利さもあり、所要もあって、またもや上野に宿を取った。

以前も書いたが、御徒町のアメヤ横丁は、横須賀のドブ板通りと同じように、今でこそ小ぎれいを装っているが、私の学生時代は、まだ戦後の闇市をイメージさせるような埃っぽい雑踏で、東南アジアの市場を彷彿とする活気と、いかがわしさに溢れていた。しかし、私にとっては、妙に落ち着くこの街に立ち寄るのも上野周辺に宿を取る理由なのである。

こんな場所で酒を飲むのがまたいいのだが、この界隈に詳しいわけではないので、こじんまりして居心地のいい居酒屋を知らない。チェーン店は多いが、若い店員の元気すぎる掛け声が耳に障るようになってきてから距離を空けている。ガード下の路地の一つに美術学校の先生方が顔を出している少し高級感(?)のある居酒屋もあるが、何か少し違う。雪の下で入る東北の小料理屋のように、行きずりの我々に優しいという感じがないし、この地の活気と生活臭を感じにくい点も興ざめする。

そこで今回は少し冒険をして、ガード下から昭和通り側の路地にある、「養老の滝」の、のれんをくぐった。近くに2軒あるのだが、客が多いほうを選んだ。狭くてうすら汚れているのが如何にも場末。給仕人も調理人も高齢のオッサン、いや爺ちゃんで、客のほとんども中高年のオッサンである。静かに、しかし人生の重荷を囲っているような辛気臭さとは無縁で、居酒屋の熱気は残しながらも、おっさん達は夕べの一杯を普通に楽しんでいる風がよかった。値段は安く、余計な掛け声もなく、齢を重ねた大衆酒場の常連が気負わず平和に杯を傾けているのが落ち着く。労働の場からつながる等身大の風景であり、大袈裟に言えば、昔の、泥臭く生活感に溢れたアメ横界隈の空気を従業員共々保管したような空間が新鮮だった。

上野駅を降りて昭和通りを渡った向うに、昔から米軍、自衛隊、警察、消防関係の放出、中古品を扱う松崎商店があった。アメ横にもこの手のお店は何軒かあったが、松崎商店が最も充実していた。私は放出品が好きで結構通った。松崎商店はまだあるのか気になって行ってみた。

あったのである!。まだ生きていた。他の放出品取扱店は姿を消して久しいが、松崎は生きていた。生きてはいたが、よれよれだった。若い頃に買った、皮製のショルダーバックや米軍の弾箱も同じ物がいまだに並んでいたし、帳場のオッサンも老けてはいたが同じだった。懐かしかったが、買いたい物はすでになく、どこの街でも同じように、昔の面影のかけらが少しずつこぼれ落ちていく。改めてそんな印象を持って此処を去った。

ご無沙汰しています

2006年12月07日

大変長らくご無沙汰しています。
帰国して早、1ヶ月が過ぎました。
日本の田舎のネット環境はラオスの地方都市サワナケートよりも劣る事をしみじみ実感していましたが、本日ようやくISDNが使えるようになりました。
今後ともよろしくお願いします。先ずはご挨拶に代えて。