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ラオス・サワナケート通信

工房での仕事中、足りないものがあったり、不都合や不具合があったりすると、ラオスの職業訓練短大の木工セクションで指導をしていたときのことを思い出す。

刃物が無い、工具が無い、消耗品がない、まともな機械が無い、機械が壊れるの連続だった。その度に、学科長であり、私のカウンターパートであるシーニャは、「ボーディ!」「ボーディ!」(No Good!)と騒いで、走り回る。
スタッフは鷹揚だが、現場の全責任は彼にある。本人はいたって真剣なのだが、私から見ると緊迫感に欠ける所が、少しユーモラスで憎めない。

古いフランス製のグラインダーが完全にちびってしまい、新しいものを買ってきたが、シャフトの径が合わず、丸ヤスリでグラインダーの中心の穴を拡げている。ヤスリが先にちびりそうだが無事に装着できた。
縦挽きノコギリの刃先に信じられない位ヤニがついてアメか松脂でコーティングされたようになったときには、粉石鹸を自宅から持ってきて、濃い水溶液を作り、数日漬けておいた(これは使える)。

集中集塵装置は、機械の台数の割りにメインチューブが細くて後半分は詰まった状態だった。前半分も詰まるので一人が棒でパイプを叩きながら作業を行っている。それでも水分の多い木材の切削のときには詰まってしまうので、2、3人の学生が叩く。パイプは、ゆさゆさと揺れ、とうとう、繋ぎ目(分岐点)から折れてしまった。そのうち折れることは想像できるが、だれも止めない、注文仕事だから時間が無いのだ。
シーニャは、青い顔をして板金用リベットを買ってくれと私にいうのだ。ブリキ板を何重にもあてがい、リベットで止めて修理をした。

集塵装置の配管の詰まりが進み、いよいよ使えなくなってきたので、ドリブンプーリーを小さいものに変えて回転数を上げ、解決を図ることになった。
以前よりは吸い込みが良くなったが、依然、後半分は詰まったままである。シーニャは、途中の配管の一部をジグソーで切り取り、長い棒で木屑を押し出した。穴はリベットとブリキで塞いだ。
本人は満足だが、一事が万事、このような手法だから、機械や設備はどんどんボロくなる。

本当に焦ったことが一度だけあった。
配管が詰まっている時期に、彼が顔色を失って私の所に駆け込んできたので行ってみると、配管のそちこちから煙が出ている。火災だと思ったが、原因は日本製手押し盤についている排出用ファンのベアリングの焼付による煙でほっとした。

今年の夏は猛暑だが、木工科の実習場は屋根が低く、入るだけで汗が吹き出でてくるし、作業着の襟まで塩が浮くから相当の高温だと思う。
今もシーニャは、その実習場で「ボーディ!」「ボーディ!」といって真剣に走り回っていることだろう。悪いが、思い出すと少し笑える。

そして、何でも簡単に手に入ってしまうし、少しの努力で彼らよりも数倍まともな修理やメンテができる環境があるというのに、文句ばかりの自分を少し反省するのだ。

政府税調会長の本間正明氏が、東京・原宿の官舎で愛人と同棲していると報じられた。
政府・塩崎官房長官は、官舎使用については問題はない。税調会長という立場としては、本人が考える事であり、プライバシーは個人の問題なので、それ以上のことを言うつもりはないと述べ、進退問題については本人の判断に任せると報道されていたのを見聞きした。

いい年のオッサンの色恋沙汰が原因で、彼の職の進退を問われる事は、通常は、あまりないように思う。

実は、私が今回赴任したラオスのサワナケートでも、JICAから派遣されているシニアボランティア(以下SV)達と現地お姉さんとの色恋は有名だった。

任期中から二十歳そこそこの若いメイドと良い中になり、現地に土地を購入し、老後を楽しんでいるおやじもいるし、任期が明けて舞戻って土地を購入し、赴任時代からの若い彼女と同棲している家族持ちのオッサンもいる。女性教官と出来て任期を楽しんだSVもはやり家族持ちである。

私の赴任したサワナケートはラオスでは第二の町だが、日本に比べると小さな田舎町である。日本の田舎と同じように地域は密なコミュニケーションが保たれている。人々は貧しく、学生は中途休学し学費を稼いで復学するのは珍しいことではない。女学生の中にはアルバイトに水商売を選ぶ子もいて、日本人SVの夜や女性との動向は、たちまち市内を駆け巡る風であったので、彼らの夜の行動はいつも周知の事実だった。
そんな日本人の情報は私が好まなくても、校長、木工科スタッフ、懇意にしている地元の人々からもたらされるのである。

それは恥ずべき事だった。ラオスの人々にとり、我々は日本という国家から派遣されている、地位や名誉のある職種であると理解されている。そのため、日本人SVの人間性やモラルはいつも注目されている。
また、貧しさゆえ、我々に言い寄る女性もいるのであるが、そうであっても、やはり、我々は試されている・・。現地の人々が試しているわけではないが、結果的に値踏みをしていることは明らかである。

前JICAラオス事務所次長は、「仕事さえして頂ければ、プライベートに関して問うつもりはありません」と述べた。我々よりも若輩の元次長が、孫もいるようなキャリアのあるオッサンのプライベートな問題に口を挟むのを躊躇するのは理解できる。しかし、税調会長の本間氏のように、事の程度を超えていた人々がいたのだ。私も日本人として情けない思いをした。これは、サワナケートに止まらない。

JICAは国際貢献を行なう政府機関として、世間の印象は悪くはないように思うが、実態は検証され、詳らかにされなければならない時期に来ているように思う。
公務員に自浄作用がないのは周知の事実であるし、日本の誇りを喪失して恥じない方々が国際貢献の名の下に貧しい国々へ出向き、現地の方のどうしようもないハンディを逆手に、自らの欲求を充足する姿勢は決して許されるべきではない。それをプライベートの問題として見過ごしていいのか、今度の件でそれを思った。

さらばラオス

2006/10/15

ビエンチャンは、我々が始めてきた2年前に比べ明らかな発展を感じる。
街路はJICAの援助で今も改良工事が行なわれている。
街は賑わい、外国人の姿が増し、素的なお店や車が増え、置かれている家具は、はっとする位シンプルで、作っているワークショップを尋ねてみたくなる。

連れ合いは、タラートサオ(朝市)での最後の買い物。頼まれた商品リストを持って値引きに忙しい。
店員は、ラドーやローレックスのイミテーションを80ドルでどうだと言ってくる。それが、交渉次第で40ドルまでは落ちるのだ(為ブランドウォッチを頼まれたわけではないが)。

今現在、日本国内に何台あるのか不明だが、綺麗に整備されたシュビムワーゲン(?、多分)が停めてあった。今見てもシンプルで実用的で実にいい(少々余談)。

この国は、天然資源、手工芸、観光、海外の親戚からの送金の他、外貨を獲得する産業が殆んどないから、外国からの支援に頼らざるを得ない。
産業モードへの移行の兆しも未だ見えないから、一般の人々の生活が豊かになるのは、まだまだ時間がかかるだろう。

一般のラオス人は、ラオス人のお店に行き、ベトナム人のお店には必要以外は行かない傾向がある。ベトナム系の発展を一般のラオス人はよくは思っていないから、マレーシアのように将来のトラブルに発展する危険性もあるかもしれないと思う。

JICAのこの国への支援方針には腰が据わったものではなく、一定感に欠けると感じている。しかし、私自身、ここで与えられた任務を終えた。余計な心配は迷惑であろう。

この国や、この国の人々への批判は容易いが、この国に生を受けてこの国の人々を超える人間になれる人は極めてまれだろうから、全てを受け入れる他ないと思っている。そして、そこから全てが始まることを知った。
さらばラオス。明日ここを発つ。

サワナケート最終日は慌しく暮れた。
スタッフとの引継ぎを済ませ、電話、電気、水道の精算をした。各役場では、精算の理由や、我々にとってはどうでもいい様々なことを聞いてくるので、ただでさえスローペースなのに更に時間が掛かってしまう。一日で終わらないのではないかとヒヤヒヤした。

校長に挨拶に行くと、彼はどういう手違いか、我々の出発を14日と勘違いしていて、顔色を失った。

通常は、教育省支所、県庁に挨拶に行き、感謝状を受け取ることになっている。
当然カウンターパートは知っているが、彼も学校側の思い違いを知るよしもない。私も、変だとは思ったが、往々にして様々なスケジュールが変更になったり、先延ばしになったりするので、今回もそんな所だろうと、テーブル制作の忙しさもあり、確認もしないままだった。

校長は、「感謝状は後日JICA事務所に送る。JICA事務所は、日本まで届けてくれるのか?それでOKか?」と聞くのだった。
午後、校長から電話があってプレゼントがあるというので、精算の合間に校長を尋ねると、感謝状も無事用意してあった。通常はスローペースだが、慌てて間に合わせたに違いない。少し笑えた。

校長の顔から焦りが消えていつもの余裕が戻り、授受のポーズで、担当に何度も写真を取らせた。
そして、学校での全ての行事が終了した。

ナショナルフラッグがはためく広場も、教室で机に向かう学生の姿もいつものままだった。
JICAからの派遣のオッサンがいたことは彼らの記憶の端から剥がれ落ちても、成果の何がしかが残ってくれれば本望なのだが・・

今は、ビエンチャンでの様々な行事が全て終わり、少しほっとしている。

最後の仕事

2006/10/13

ラストテーブル10月9日、最後の仕事になったテーブルが完成した。
10月4日にスタートして、カウンターパートとナンバー2の3人で制作。甲板(天板)は無垢の一枚板。

ここに来て感じることは、日本人に比べ、全体に対する部分の手順の位置と意味を考えるモノ作りの姿勢が希薄であるということ。つまり、ロジカルなモノ作りができない。それを教えることには腐心した。

また、正確な仕上げのための機械の使い方、使用順序の概念がないため、それを理解させ、正しい使用方法を定着させるために非常に多くの時間を割いた。
さらに、理解が定着するくためには、多くの実習を重ねる必要がある。

赴任1年後からスタートさせた教官対象の特別コースでは設計から制作までを行い。出品した展示会では評価が高く、カウンターパートのやる気を起こし、その後は、多くの実習を共に行なうことができきるようになった。
ただし、問題はそれがどれだけ定着しているかどうかであるが、そこは若干自信がない。定着には、まだまだ時間がかかると思っている。

このように書くと、実にうまく成果が出せたように見えるが、悶々とした時間を過ごし、焦れ、幾度も腹が立ち、無力感を感じてきたことも事実である。
我々に課せられたことは、任地への共感を失う事となく、そこを超えていくことである。その点では、我々一人一人が人間として試されているといっていい。

この日は、我家において木工科の全スタッフと共に、最後のラオビールを飲んだ。日本の田舎空間を思い起こす平和な団欒だった。

長い間、いい加減な修理の積み上げで、まともな所がほとんどないビートル。
キャブレターもあらゆる部分が、いい加減なメンテナンスで覆われていた。始動が悪かったのは、アクセラレーター(加速ポンプ)からの噴射ノズルが詰まっていたせいだったが、そのノズル自体も有り合わせの可能性が高い。ノズルの詰まりは直せたが、ガスの射出量が異常に多いのである。
だから、始動はできるのだが、始動時にアクセルを不用意に踏みすぎると、エンジンがかぶって始動不能に陥る。そんな時は、そっとアクセルを踏み込み、そのままにした状態でしばらく待ち、スターターを回さなければならない。

その面倒な車を売ってくれという。地元のまだ若いサラリーマン。調子は悪くて、部品は高く、地元にはこの車に詳しいメカニックはほとんどいないという悪条件でもいいという。

最近になって始動性が極端に悪くなっていたこともあり、再始動性の悪さの改善も合わせ、売却前に少しメンテをした。
始動性の悪さは、点火時期の進めすぎだった。正規の位置に戻したらすぐに始動できた。

アクセラレーターからのガスを減らせることができれば、かなり状況は改善させるに違いない。解決方法として、アマチュアの私の考え付くことは、ノズルの先をトンカチで潰して穴を小さくする。アクセラレーターの作動を少し遅らせてガスの噴射量を減らすということだった。
最初の方法は、最も簡単であり、すでに一度試していた。ただし、ガソリンにゴミが混入している可能性が高いから、いつ又、ノズルが詰まるかわからない。それも困るので、あまり潰したくもなかった。
アクセラレーターが作動しないと、このビートルを始動するためには、エンジンフードを開け、手動でチョークバルブを閉めなければならない。オートチョークだから、始末が悪いのだ(ただし、オートチョークは壊れている)。

スロットルリンクに連動し、アクセラレーターを作動させるアクチエーター(連結棒)にはスプリングが組み込まれ、それを介して作動している。そこで、スプリングを少し切った。これで、初期作動が遅延した。もう少し切って、さらに遅延させたほうが良さそうだったが、時間もないので勘弁してもらった。ガスの噴射量は減るはずである。多少は改善を期待したいが、いい加減整備の上塗りになった可能性も高い(?)。

1,500ドルで購入したが、気の毒になって900ドルの予定を800ドルで売った。それでも、教員の給料の2年分位になるのだ。彼は本当に嬉しそうに、しわくちゃになった100ドル札8枚を差し出した。ずーっと貯めてきたのだという。

日本の軽自動車よりもパワーがなかったし、どこも彼処もひどい状態にも関わらず、所有の喜びと、愛着が途切れることはなかったのは、あのフォルム―。
もう乗ることはないだろう。

旅行ガイドを携えてサワナケートに来たことのある方なら、カフェドパリはご存知だろう。欧米の旅行ガイドにも紹介されているようで、多くの白人達が利用している。
その店を出て、イミグレから旧市街の方向へ10m位入った右側に日本語で書かれたメニューを出すレストランがある。

そのお店ではトンカツが食える。ラオスの豚や牛肉は通常硬いが、そこのものは柔らかくて実に旨い。

我々はもうすぐサワナケートを離れる。今日は、そのお店に最後のトンカツを食いに行った。
最後に食べておきたいという思いと、作り方を見たいという理由からである。どこが違うから嫁さんの作るトンカツより旨い、いや柔らかいのか?

我々は、そのお店の肉は柔らかいので、タイから仕入れているに違いないなどと話していた。
初めて見る、素敵な調理担当のお姉さんは、朝市で仕入れたラオスのお肉を使っていること。ラオスのお肉は完全天然飼料なので、実に安全であること。また、トンカツは日本人に習ったわけではなく、彼女は中華系なので漢字が解る。そこで、日本の料理の本でトンカツを勉強したというのである。

うーん。そうであったのか。ともあれ、彼女が日本のテキストで仕入れたノウハウは、日本のおばちゃんにきちんと還元して頂くことができた。

ちなみにそのノウハウは、嫁さんの話では、日本では見たこともないほど、まるで、切れる位に厳しく肉を叩くというものだったのである。

ダブルボウウィンザーと・・・ようやく最終報告書を書き上げ、郵送する事ができた。
昨日、ダブルボウウィンザーが完成した。前回は、ウィンザースタイルのサイドチェアーを制作した。次のステップは、曲げ木を用いたダブルボウウィンザー(ウィンザースタイルのアームチェアー)に挑戦したいところである(やはり)。ただし、曲げに適した木材を見つけられるかどうかは分らないし、スティーマーに用いる耐水ベニアも入手できるかどうかわからない(参考までに、ここでは、柱、梁用のコンクリートの型枠は無垢板を用いている。壁はレンガ積)。

幸い、試験の後、夏休みに入り、この試みを行なうにはちょうど良かった。

現在、ラオス、タイ間で、日本の援助によって橋が作られている。そこで使われている耐水ベニアを入手することができた。ただし、耐水能力は日本のコンパネよりもかなり落ちる。

曲がりやすそうな材を数種類購入して、条件や、サイズを変えながら数回試した。曲げ用の形(フォーマー)は、曲率は大きくして、曲がりやすいようにした。

トロピカルウッドは総じて曲げにくい。フレキシビリティに欠けるからである。ただし、ラオスには寒暖の差があるせいか年輪のある材料は多いし、導管も認められることから、曲げには期待が持てたが、なかなか曲がるものではない。材の外側は断裂が、内側では座屈が同時に発生するのである。
限られた時間ではあったが、何とか曲がり、使えそうなものを得ることができた。もう少し探せば、曲げ易い材料を見つけることができる可能性はある。

ところで、カウンターパートは来年の展示会に向け、テーブルも作りたいという。この地域ではテーブルセットとして展示、販売する。できれば、テーブルがあるに越したことはないのだ。そして、帰国直前になって、テーブル作りがスタートしてしまった。

画像左は、ハンドプレーナーを用いて平滑加工を始めた一枚板の甲板(天板)(800×1600mm)。左は、学生が制作中のウィンザースタイルのサイドチェアー。これらがセットになるのである。