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手作り家具工房を笑え

熊野大社

2009/04/05

国立から夜通し走ってきた。疲れている上に、米子道は強い風で、安定に欠けるチープなワンボックスを転がすには難儀した。
奈良に寄りたい気持ちも強かったのだが、慣れていて、気持ちの負担感の少ない山陰を選択した。

松江に入る頃には強かった風もなぎ、訪れたときには、いつもこの地域が示す、穏やかで心地いい雰囲気が、雨上がりの弱い陽光と共に、今回も我々を囲んだ。

舞殿熊野大社の規模は大きくはない。規模の大小やポピュラリティとは一見無縁の、気取りの無い瀟洒な神社は、しかし、古事記や日本書紀の時代から存在してきたのだ。

このような宗教観が在り、それを継承してきた文化の形式があることに改めて驚く。漠然としているにせよ、明らかに英邁なる哲学宗教観を伴う共通認識が民意の底に存在していた。往時に培養された意思が、境内の配置や雰囲気、そしてアーキテクチャという立体表現を通して、今日も我々を打つのだ。

熊野大社の主祭神は須佐之男命(天照大神の弟神)である。また、熊野大社は出雲国の「一の宮」(注1)に選定されている。

出雲も熊野大社もいいが、連れ合いの決意は朝ドラで脚光(?)を浴びた「シジミ汁」を食することだった。
宍道湖の周回道路には、「だんだん」という店名の食堂や、「シジミ汁」の看板が目につく。
私には普通のシジミ汁に思えたのだが、旨いといって譲らない。

画像は熊野大社「舞殿」。

注1:「一の宮」とは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社を指す。各国で一の宮を名乗り、かつそれが広く認められている神社を挙げると105社(複数ある場合は全て列挙。新一の宮は含まず)もある(Wikipediaより)。
過去に一の宮とされたことのある神社によって「全国一の宮会」が結成され、また、一の宮巡拝(注2)が行われるようになってきた。

注2:一の宮巡拝を行っている人々の集りとして「全国一の宮巡拝会」が結成されている。巡拝者は朱印帳を持って全国68箇所の一の宮を巡拝している。
以前、我家にWooferとしてバイクで訪れた宮城県出身のS君は、朱印帳を持って全国の一の宮を巡拝していた。そういった若者がいることに驚いたものだった。

椅子展「葛城弘治 椅子展 2009」のお知らせです。
今回は昨年に続き二度目の椅子展となります。前回に続き、出展している多くの椅子は、英国が発祥である「ウィンザーチェアー」をベースにしています。

ウィンザーチェアーや、ラテンスラットバックチェアー(中世から作られてきたシェーカーの椅子の原型)は、グリーンウッドワーキングといわれる、独特のテクニックを用いて作られてきた椅子です。
これらの椅子は、工法とスタイルが一体となった、歴史が育んできたスタンダードチェアーといえるものです。それは、最小の部材で構成されているにも関らず、極めて合理的な構造を持ち、強固なアイデンティティを有しています。

スタンダードな椅子を標榜し続ける私の椅子作りの基点は、グリーンウッドワーキングのテクニックによって成立した伝統的スタンダードチェアーである、「ウィンザーチェアー」や「スラットバックチェアー」だったのです。
もがき続ける私の解釈の課程を御覧頂ければ幸いです。

■日時:2009/03/14(土)~2009/03/21(土) / am11:00~pm6:00(最終日pm4:30)
■場所:東京都国立市東1-14-17 画廊「岳」 / TEL: 042-576-9909

2009 初春に

2009/01/04

ようやく椅子作りを行う環境が整ってきた。
椅子作りは長年やりたい仕事だった。深刻な理由はない。単に椅子が好きだったからだ。
大学の卒業制作も、職業訓練校の最後の自由制作も椅子を選んだ。

昨年、念願だった初の椅子展を開くことができた。
モチーフは、英国が発祥のウィンザーチェア。
ウィンザーチェアは工房設立当初から、いつの日か作りたいと思っていた。とりわけ、コンティニアスアームウィンザー (一本の無垢材を曲げて背もたれから肘掛まで一体) を作ることは夢だったが、どうやって作るのか、手がかりも見出せない遥かな目標だった。

工房設立から二、三年して、スラットバックチェアに出会った。
無駄なものがなく、シンプルで優雅。ウィンザーチェアは難しいが、この椅子ならバリアは低いような気がした。ただし、後脚は曲げ加工が用いられている。洋書を訳しながら独学で曲げ木をマスターし、スラットバックチェアは完成した。
小ぶりで軽く、惚れ惚れするくらい綺麗だった(勿論、伝統的な形状のまま)。

その後、英国のチェアメーカーにウィンザーチェアの制作法を学んだのだが、彼が若い頃は、スラットバックチェアと、ウィンザーチェアの両方のパーツを作っていたという。
衝撃だった。
2つの椅子は、共にグリーンウッドワーキングの技術(生木から作る技術)を用いて作られてきた椅子だった。私の中で2つの椅子が融合した。

初の椅子展はグリーンウッドワーキングの椅子をベースにした椅子を制作した。
伝統的で、経験に基づいて確立した合理的制作手法を持った椅子を出発点にし、私の椅子作りの基本としたかったからだ。

長い間の夢だったコンティニアスアームウィンザーも展示の列に加えることができた。
ようやく此処まで辿りついたと思った。作りたいと思ってから20年もかかってしまった。

実は、会場に来て下さったあるご夫婦が、「どれがエレガント?」と小さく話し合う声を耳にした。
未だウィンザーの解釈の途上にあることは自覚している、しかし、エレガントと自信を持っていえるものは少ない。それを自覚させられた瞬間だった。

まだまだ、である。
まだまだだから、自らの納得を引き寄せるためにもう少し悩まなければならない。
イメージとの乖離を減らすため、更なる技術的な向上も必要である。いきなりは難しいが、私にも、少しずつなら可能である。

今回、私の椅子を評価して頂いた方々のために、一層の向上をもって返したいと思う。
感謝と初春の挨拶にかえて。

晦日に

2008/12/31

妙に腹に立つことが多い。
些細なことに腹が立つ。
他人の長所を、価値を認めようとしない。
疲れる輩をすぐに切りすてる。
そして、つまらないプライドにこだわる。

感動を感じない。
生きている実感が希薄。
感謝の思いが涌かない。

年末のNHKの恒例番組を観つつ、
疲れるといいながら、
為ビールの味にいちゃモンをつける。

年を取ったせいなのか?
実にせこいジジイになったものだと思う。

晦日に・・。

(番組は続いている。酔いが回り過ぎる前に)

秋空の下

2008/10/16

秋の屋外で雲一つない秋日和。
思わず、暗い工房から出て、野外でコーヒーを飲みながらアイデアを錬る。
春に比べると、心なしか陽光には力がないが、それでもコントラストは高く、空気は澄み、戻ってきた様々な野鳥の声が風景に解けている。

雲がなく、圧倒的なハイコンの風景はここの特徴。熱帯地方でも、ぼんやり雲がかかっていて、眩い景色はなかった。

コーヒーを飲みながら、いつもの風景を眺めているのだが、その風景に感嘆してしまい、長いこと思考が止まっていることに慌てる。

暫く前、NHKラジオで、「いのち」をテーマにしたプログラムを、作業の合間に耳にした。
その中の一節・・(大意)。

「我々が、何も感じないですごしている今日という日は、重い病を患う方々が、明日を生きたいと切望して叶わなかった今日なのだ」

うーん。少々重いメッセージ。
仕事は減っているが、幸せなひと時、いや、安逸を貪る私に、そのメッセージが思い出される。

どう生きよう。

夜明け前に

2008/08/12

ラジオの実況で聞いた北島の勝利に体が震えた。

ノルウェーの新鋭(?)ダーレオーエンやハンセンをワールドレコードという結果で砕いた北島の意思と執念そして強い闘争心。これほどの日本人アスリートは10年、いや20年に一度しか見ることはできないと、思う。

勝利を期待された強いプレッシャーの中、最高の結果で答えた強靭な意志は、体力が落ちていくのを自覚しながら田舎で家具を作っている軟弱なオッサンの萎えた気持ちを叩き、思いの力と持続が全ての源であり結果の具現だということを改めて示してくれた。

戦後、清里の地を訪れ若者を指導したアメリカ人ポール・ラッシュは、「健康の大切さ」「宗教心を持つこと」、そして「一番であれ」(must be first)と説いた。

爾来私は、「must be first」をいう言葉を把持している。一番を目指すことが多くの困難を自らに課し、乗り越えられる。その努力に華があり、感動を生む。
そして、北島の結果に改めてこの言葉をかみ締めたのだった。

(何故か夜明け前に目覚め、北島のシーンを思い出した。「must be first」は格好いいが、悶えながら家具作りを続けている。感動を与えられるものを生み出したく・・ (-_- ; ))

家具を作っている。
所で、何のために作るのか、自問する時がある。
そんな思いが積乱雲のように速やかに現れ、気持ちを支配するほどのことはなくても、漠然とした自分自身のモノ作りにおける疑問は、心の深奥に確かにある。

中学生の頃、日没間際の逆光で、黒々と強調された、国鉄の架線や操車場のシルエットや、近道をした境内の見慣れたはずの本堂など、身近な風景に心を奪われ、紙の上に定着したいという思いに満たされる瞬間があった。

なぜか木版画が好きだった。モチーフとしての風景を木版への適合として眺めても、純粋に自己表現への熱意が先にあったのだ。
そんな、自分自身の中から理由なく湧き上がる熱意を思い返すとき、作家「辻邦生」は切り離せない。

以下、辻邦生著「生きて愛するために」の中から「三つの啓示によせて」を引用する。
(これは「臨死体験・気功・瞑想~精神世界の旅」というサイトに引用されていたのを偶然見つけました)

パリに最初に留学した頃、私は自分の文学の土台になる三つの啓示に出会った。その一つは、滞在二年目の夏、ギリシャに旅行して、アテネのパルテノン神殿を仰いだときだった。旧式のバスに揺られ、アテネの街に入ったとき、遠くにアクロポリスの丘が見えた。その丘の上に点のように見えたものが、近づいてきて、やがて神殿の形をとった。「パルテノンの神殿だ」思わずそうつぶやいた瞬間、神殿から光のようなものが私の身体を刺し貫き、私 は我を忘れて、胱惚とした歓喜に震えた。我にかえったとき、全身に、涼しげな鈴の音の余韻のようなものがまだ鳴っていた。

その二つは、ギリシャ旅行の翌年の春の夕方、パリの国立図書館からの帰り、セーヌ川にかかるポソ・デ・ザール(芸術橋)の上に立っているときに起こった。その日は朝から本を読んでいたので、私は疲れて、橋からぽんやりシテ島やノートル・ダムやルーヴルを眺めていた。そのとき突然、私の身体が透明な球になって、みるみる大きく膨らみ、セーヌも、ノートル・ダムも、バリの街々も、この大きな透明な球に包まれるのを感じた。私はまるで 気球に乗ったように眼の下に連なるバリの街々を眺めた。そして「あ、これは私のセーヌだ、私のノートル・ダムだ、私のバリだ」と叫ばないではいられなかった。それまでこの現実は、私の外側に、何の感動もなく拡がってい た。それなのに、その瞬間、世界は私の内側に転入していた。何かとても親 しい大事なものとなって、両腕で抱えこんでいるような気がした。どんな遠いものも、どんな小さなものも、すべて<私の世界>のなかの住民だった。そう思った瞬間、ギリシャのときと同じような歓喜が全身に湧き上がった。

その三つは、それから一ヵ月とたたない頃、国立図書館の広間にリルケのフランス詩「薔薇」の豪華本が展示されているときに起こった。たまたま「一輪の薔薇はすべての薔薇」という詩句が、ケースのなかに拡げられていた。それを目にした瞬間、反射的に、一輪の薔薇のなかに無数の薔薇が浴れ、万華鏡のようにぐるぐると回るのが見えた。しかしその一輪の薔薇は、すべての花々を超え、その上に、静かに、高貴に花を開いていた。この純粋な薔 薇の原型のイメージを見たとき、あの同じ歓喜が泡立つ波のように全身を包むのを感じた。

この三つの啓示は、私が文学の根拠を求めている遍歴のさなかに起こったという点では、私の激しい問いかけに対する答といっていいものだった。パルテノンの啓示は、美とは、大きな光のように、この地上を包んでいる絶対者的存在だ、ということを語っていた。

セーヌの橋上の啓示は、世界が私と一つであり、私と無縁なものなどは存在しない。森羅万象は私なのだ、ということを示していた。

リルケの詩の啓示は、美の一つ一つが、それぞれに絶対の美の現れだということを語っていた。そしてこの三つに共通するのは、われわれの生の根拠につねに美が存在し、それが生のすべてを包んでいる、ということだった。私は美を求めて物から物へ喘ぐように遍歴していたが、そんな必要はまったくない。美とは、そして幸福とは、いまここにある。それに気づくことが肝心なのだ ――そう思ったとき、一挙に、溟濛の霧が晴れるのを感じた。 それは、さらになおさまざまな試行錯誤をともなったが、進むべき方向はそのとき定められたといってよかった。一言でいえば、私は、この地上のすべてのものを――季節も、天候も、時刻も、花々も、木々も、海も、山も (ラムのように「悪党どもも」と加えてもいい)――かぎりなく素晴しいものとして、ひしと抱きしめ、刻々、花の香りに包まれた陶酔のなかで生きるようになったといえる。すくなくとも、それが私の文学の中心の仕事となったとはいえるかもしれない。
(以上)
(パルテノンでの啓示は、同じく辻邦生著「異邦にて」の中の「ある告別」等でも触れられています)

若い頃、才能豊かで思慮深遠な辻氏の万物万象の観かたに感じ入ったものだ。
実は、この所、こういった感性が、見事に枯渇してしまったと感じてゐる(気分的に下の「イ」を使用)。

「生」の実感をふとした折、それは身近の風景であったりしても、それを感じることが、モノを生み出すことと、何処で繋がっているのかは、はっきりとは判らない。
純粋芸術なら自然や些細な営みから受ける「人間への眼差し」や「崇高な意思」のようなものを創作の原点や基点とするというのは判るのだが、自分の作る椅子や卓子など、あろうがなかろうが、ましてや、そこに多少の理屈があろうがなかろうが、さしたる問題ではないという思いに捕われて抗えない時がある。

暑い日が続いている。不意に手が止まり、立ち尽くして工芸論などを考えているわけではないのだが・・。

湯の倉水没

2008/07/16

先の岩手宮城内陸地震によって宮城北部の町、築館市が俄に有名になった。
築館は私が25年前から4年間過ごした町だ。ニュースで話題を提供することもない小さな町だった。マスコミで名前が出てくるのは懐かしいが、事が天災なだけに心が痛む。

築館から車で30分位山手に入ると花山村があった。冬の花山は大袈裟にいえば、当時の我々には秘境(!?)に写った。なにしろ、一面真っ白な本格雪世界を見るのは、ここが始めてだったのだ。

はっきりとは覚えていないが、花山入って暫くすると、民宿を兼ねた山内食堂があった。
深い雪を踏みしめて入ったこの食堂で、熱燗を飲んだ。客もなく、音もなく、外ではひたすら雪が降り、食堂の無口なおばさんは、時折ストーブに薪をくべるのだ。
幾度も無意識のうちに刷り込まれているせいだろうか、こういった情景下では、見事に、理由なく演歌的叙情になってしまう自分がいる。それも、結構楽しいが・・。

その先に、佐藤旅館があった。古い旅館だった。ネットで調べると秘湯 温湯温泉 佐藤旅館となっている。こここを過ぎ、車を置いて20分位歩いた所に湯の倉温泉がある。

電気が来ていなくて、夜はランプ。だから「ランプの宿」として知られていた。川の一部を囲って、そこに温泉を引き入れていた。だから増水すると入れないし、夏場はアブが多くて大変だったが、実に情緒があった。
木工所の親方の奥さんが築館の出身で、親方ともここへ来たことがある。夜遅くまでランプの灯で酒を酌み交わした。今思えば随分世話になったものだ。
(最近は、お客も増え、モラルも低下してあまりよくないという書き込みを見た・・残念)
今回の地震で川がせき止められて水位が上り、遂に建物が浮いて流されているのをニュースで見た。
再開は可能だろうか?。
佐藤旅館や山内食堂は無事だろうか?
この先、訪れることがあるだろうか?

余談だが、山内食堂の隣には、廃校となった花山村立花山小学校温湯分校があった。規模といい雰囲気といい実によくて、家具工房にできたら最高だろうなと思ったものだった。何度も通い、勝手に検討したが止めにした(正式に使用できるかどうかも訊いていないのに!)。
都市部からあまりに遠いと考えたからだ。